地元だけではなく日本のサッカー界を代表するチームへ
横浜といえば、日本の歴史の中で多くの異文化を受け入れてきた地域です。
スポーツの部分を見ると、日本は野球が一番で、その後にいろいろなスポーツが続く国であるといえるでしょう。
そんな中で、サッカーの人気を支えてきたのが、横浜Fマリノスです。
紆余曲折を経て、横浜だけではなく日本のサッカー界を代表するチームとなりました。
日産から紆余曲折を経て横浜Fマリノスへ
横浜Fマリノスの前身は、日産自動車サッカー部でした。
多くの日本代表を輩出したチームで、日本サッカーの主要大会で3冠も達成したことがあったのです。
当時、読売サッカークラブと覇権を争い続けてきたこともあり、これを黄金カードとも呼ばれました。
Jリーグが始まり、横浜マリノスと名前をかえ、1995年に初めてステージ優勝を決め、読売から変わったベルディ川崎をくだし、初優勝したのです。
ただ、社会的に景気が後退する中、サッカー界の進撃も翳りをみせ、同じ横浜に合ったフリューゲルスが解散することになります。
どの企業も出資することはできない状況の中、一番のライバルであった横浜マリノスに吸収合併されることとなり、横浜Fマリノスに変わるのです。
攻撃的なチーム構成と松田直樹の存在
横浜Fマリノスの魅力といえば、攻撃的なチームにあるでしょう。
前線の破壊力は、Jリーグ開幕以来続けていることで、さまざまな選手が活躍してきました。
現在でも、ドリブラーとして抜群の突破力を見せる斎藤学や、天才と呼ばれ世界で名前を知られた中村俊輔などがいます。
過去にも、Jリーグで初めての得点王に輝いたのは、横浜マリノス時代のラモン・ディアスでした。
だからといって、ディフェンス能力が低いわけではなく、中澤佑二をはじめ栗原勇藏の様に日本代表になる選手も数多くいます。
さらには、U-22に選出されるような若手も出てきているのです。
そんな選手の中、Jリーグをけん引し、日本サッカー界に多大な貢献をしながらも、本当に若くして亡くなってしまった松田直樹がいます。
ミスターマリノスと呼ばれるほどの横浜Fマリノスの選手でもありましたが、2010年に退団しJFLに所属していた松本山雅FCに移籍しました。
その次の年である2011年に、練習中に突然倒れ、帰らぬこととなってしまったのです。
サッカー界のみならず、スポーツ界に大きな衝撃として伝えられましたが、そんな中で横浜Fマリノスは、当時の背番号であった3番を永久欠番としました。
ミスターマリノスという名前は、それだけ伊達ではなく、本当に愛された選手であったといっていいでしょう。
サッカー教室などによる地域貢献
横浜Fマリノスは、Jリーグのチームとしても魅力があることは間違いありません。
ですが、それだけではなく、地域貢献として横浜市と横須賀市でサッカー教室を行っていたりします。
基本は小学生以下が対象ですが、大人を対象とした教室もあるのが特徴でしょう。
ほかにも障害者サッカーに対しても技術提供などを行っており、幅広いサポート体制を持っています。
地域イベントも活発で、学校と業務提携をしたり、横浜市や横須賀市のイベントにもブースを出展したりしているのです。
こうした活動が、Jリーグの理念の一つでもあり、地域に密着したチームになっているからこそ、魅力あふれ応援したいチームになっているといえるでしょう。